働かない働きアリ

色々発信したくなった強欲者のブログ。自分の考えを沢山の人と共有できたらと思ってます。

限界とは

最近はマラソンブームだからか会社の人や友達とマラソンの話題になることがままある。大学に入ってから出たハーフで1時間半切りだったなどと話すと「そんなに速いのに全然走ってないなんて勿体無いね!」と決まって言われる。
その時は「今は走るタイミングがなくてねー」などと返すのだが、そうした会話をしていると脳裏に青春の記憶が蘇る。


小学生の時の冬のマラソン大会ではクラスで1番、学内でもトップクラスに速かった。5年生になり地元のマラソンクラブに通うようになった。自分の走力には自信があった。しかし、そのマラソンクラブにはAがいた。初日に1000m走をやることになった。1月の校内マラソン大会では昨年に続き優勝したので自信はあった。しかしAは速く彼の背中を見ながらゴールする羽目になった。こんなに速いやつがいるのかと驚かされたと同時に自分は1番ではないんだと落胆したのを覚えている。

それでも走るのは好きだったので中学に入り駅伝部に入った。同じ学区だったAも入部した。その他足に自信のある者が数名入部した。初日の練習の最後に長距離ブロック恒例の1000m走を行うことになった。ここでまた少年は自分が万能の天才でない事実を叩きつけられると同時に世界の広さを知ることとなる。通常1000m走となると10秒、200mトラックで半周分も差がつくと大差なのだが、このときは2,3年生達と一周近くも差を付けられた。驚愕した。こうして自分が特別な才能を持っている訳ではないことを自覚した。
負けず嫌いだったので高校まで陸上を続けたが、その間多くの挫折と悔しさ(と何にも替えがたい青春)を味わい、アスリートの道を退いた。


今になって思うのは自分は世間を知らなさ過ぎた。小学生の頃でも書店に足を運べば情報誌で全国で活躍する同い年選手の記録を見て自分との実力差を推し量ることもできた。
急に自分を超える存在を目の前で叩きつけられて必要以上に萎縮したせいで、自分の中に見えない壁を作ってしまったように思う。そうして狭まった視界でひたむきに練習に励み、上級生や同級生との実力差と伸びない記録、劣等感に勝手に押し潰されていった。



社会に生きる誰もが自分の限界を感じたことはあると思う。
日夜必死に練習し臨んだ部活の大会で初戦の対戦相手に完敗したとき、毎日欠かさず勉強した自分は落ちたのに勉強もそこそこに遊びに励んでいた友達が同じ志望校に受かったとき、話す内容のメモを作り、前日何回も通し練習をしたのに同期の方がプレゼンが上手かったとき。
生きる上で才能ある者と比較の秤に乗せられ、力の違いに絶望した経験は多くの人が持っているだろう。
しかし、自分の能力に限界を感じる必要はないし、人と比べて劣等感を過剰に抱く必要もない。
自分の実力を知り、次のステップに向けて肩の力を抜いて都度方向を修正しつつ正しく努力を重ねればいい。
かつてランナーにとって「1マイル4分の壁」があった。


1923年にフィンランドのパーヴォ・ヌルミが1マイル4分10秒3の記録を樹立。それまで37年間も破られずにいた記録を2秒も更新する驚異的な世界記録だった。もうこれ以上の記録は出せないだろうと専門家は断言し、1マイル4分を切ることは人間には不可能というのが世界の常識とされていた。世界中のトップランナーたちも「1マイル4分」を「brick wall(れんがの壁)」として「超えられないもの」と考え、エベレスト登頂や南極点到達よりも難しいとさえ言われていた。しかし、1954年オックスフォード大学医学部のロジャー・バニスターによって1マイル4分の壁が破られると、その後1年の間に23人ものアスリートが壁を突破した(Wikipedia)。

1マイル4分は限界ではなかった。
「4分以内に1マイルを走れる訳がない」という思い込みが限界を生み出していた。




8月の休暇中にずっと患っていた鼻の治療をした。冬には久しぶりにハーフマラソンに出ようかと思う。無謀にも自己最高記録を狙うつもりだ。